「国郡志御用二付下調書出帳」(文政2:1829)では、貞治5年(観応元年の誤りか)同じく江の川を渡る際に、師親の鐙にこの石が三度かかったことで日頃信仰している八幡神の加護と思いこれを持って戦ったところ軍功をあげた。このことから戦いに勝利した11月1日には川通りといって餅で祝う習慣があることが記されている。
由来どおり表側に「八幡宮」、裏側に「牛頭天王」の墨書がみえる。
旧所在地 吉田町吉田
所有者等 宮崎神社
時代 南北朝
掲載者 | |
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関連HP |
鐙石(あぶみいし)
「国郡志御用二付下調書出帳」(文政2:1829)では、貞治5年(観応元年の誤りか)同じく江の川を渡る際に、師親の鐙にこの石が三度かかったことで日頃信仰している八幡神の加護と思いこれを持って戦ったところ軍功をあげた。このことから戦いに勝利した11月1日には川通りといって餅で祝う習慣があることが記されている。 由来どおり表側に「八幡宮」、裏側に「牛頭天王」の墨書がみえる。 旧所在地 吉田町吉田 所有者等 宮崎神社 時代 南北朝
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