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毛利氏関係史跡

毛利氏関係史跡地図

毛利氏関係史跡
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郡山城跡

郡山城跡は、南北朝時代の建武3年(1336年)に毛利時親が吉田に入った後、時期は不明ですが郡山東南麓に城(本城)を築かれたのが始まりです。以来、毛利元就が16世紀中頃に城域を全山に拡大し天正19年(1591年)孫輝元が、広島城を築き移るまでの間、毛利氏の本拠城でした。

標高390m、比高約200mの山頂に本丸、二の丸、三の丸を構え、四方に延びる峰には200以上の郭があり、全山を城郭化した大規模な山城です。郡山城跡は、戦国大名毛利氏の城のあり方を示す上で貴重な遺跡で、国指定史跡さらに日本100名城に選定されています。
 

 

 

毛利元就像(伝御里屋敷跡)

毛利元就の居館「御里屋敷」が、城の南西麓にあったとの伝承があります。この伝承地(現在少年自然の家)の脇には元就の像があります。
毛利元就銅像

 

三矢の訓跡碑

元就が三人の子どもに与えた訓話で、一本の矢はたやすく折れるが束ねた矢は折れないという、「三本の矢」の伝説を記念し、戦後建てられたた石碑です。逸話の真偽は不明ですが、協同一致の精神を説いた、元就の人物像や考えを伝えています。
三矢の訓跡碑

 

伝元就火葬場跡

元就の死後、初7日の法会後に、竹原妙法寺(現在の西方寺)の住持 嘯岳鼎虎禅師を導師に火葬されました。その伝承地が城の南西麓にあります。
伝元就火葬場跡

 

酉谷地点石垣跡

遺跡は、郡山城跡の酉谷に造られた郭群の一角にあたり、豪雨によって、大きく崩落したことに伴う復旧工事のため、発掘調査が行われました。
調査によって石垣・郭跡・鍛冶炉跡・郭造成の版築土層などの遺構が確認され、小量の土器陶磁器片、鍛冶炉周辺から鉄滓、鉄釘などが出土しています。また、この石垣は保存処理され、現在でもそのままの形で見学が可能です。

酉谷地点石垣跡

 

毛利隆元墓所

隆元は元就の長男で、毛利家当主として父とともに毛利氏を戦国大名に飛躍させました。永禄6年(1563)、出雲へ出陣途中の佐々部(高宮町)で急死しました。墓所は、菩提寺常栄寺跡の上にあります。
毛利隆元墓所

 

大通院谷遺跡(薬研堀跡)

郡山城の西にあたる大通院谷遺跡は、砂防工事に伴う発掘調査の結果、郡山城の一部とみられる薬研堀、屋敷跡などの遺構や大量の遺物が検出されました。薬研堀はV字型の堀で約100m検出されました。毛利元就、輝元時代に造られたとみられています。
大通院谷遺跡(薬研堀跡)

 

毛利一族墓所

元就墓所下段に、吉田毛利氏の初代時親から、8代豊元(元就祖父)までの合墓と、元就の兄興元、興元の長子幸松丸、隆元夫人の墓が並んでいます。
毛利一族墓所

 

毛利元就墓所

元就は、中国地方に勢力を拡大した後元亀2年(1571年)6月14日に75才で病没しました。墓標には、今は枯れていますがハリイブキが植えられ、菩提寺洞春寺(現在は山口市)が建立されました。墓前の石灯篭は、演劇「男の花道」で知られる眼科医土生玄碩や、広島藩主浅野吉長が寄進したものもあります。

毎年、新暦(グレゴリオ暦)の命日にあたる7月16日には、神式の墓前祭が開催されています。
毛利元就墓所

 

百万一心碑

元就が郡山城を拡張する際の伝説で、当時のならわしである人柱に替え、礎石に「百万一心」と彫らせ、「人の命は尊いもの、城の堅は人の和で、協同なくしては城は守れない」とこれを埋めさせたといわれています。「百万一心」の文字は「一日一力一心」と読めるように配してあることから、一日一日を、一人一人が力を合わせて、心を一つに協同一致して事を行うことを、教えたものと伝わっています。現在の碑は昭和6年、元就墓所境内に建立されたものです。
百万一心碑

 

嘯岳(しょうがく)禅師墓

毛利家墓所の上にあり、柊の大木のもと高さ2.7メートルの宝筐印塔が建っています。
禅師は2度も明に渡り、帰朝後、丹波高源寺、京都の建仁寺、南禅寺を歴任していましたが、元就の要請により竹原妙法寺の住職となりました。
元就逝去の際には禅師を葬儀の導師とし、また三回忌には禅師を開山として、菩提寺洞春寺を建立しました。慶長4年(1599年)72才で没しています。
嘯岳禅師墓

 

郡山公園(興禅寺跡)

この一帯は毛利氏時代の興禅寺跡で、当時興禅寺村が置かれ、寺領を与え保護されています。この寺は、広島に移り現存しています。公園は大正4年(1915年)の築造で、浅野長厚三万石の居館に付設された「文久亭」を拡大修復したのが郡山公園です。
また、ここは桜の名所としても知られています。

郡山公園(興禅寺跡)

 

清神社

郡山山麓にあり、元禄7年(1694)再建といわれる、拝殿と本殿が一体となった珍しい造りです。特に戦国時代は郡山の鎮守社として毛利氏の祈願所でした。正中2年(1325)から残る棟札があり、それ以前に創建が確実な古社です。例祭は毎年5月5日で、街中にみこし行列やだんじり子ども歌舞伎が繰り出す「吉田の市入」として有名です。また、チーム名が「三本の矢」に由来する、サンフレッチェ広島が毎年必勝祈願に訪れる神社としても知られています。
清神社

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